ぼくたちはいつまでもせせらぎを背に立ちつくしていた(原稿10枚/深大寺恋物語没原稿)

通るか通らないか、よりも書きたいことを書いた「恋物語」。原稿10枚。
お題が深大寺にゆかりのあるものという規定があり、その規定の中で書いたので、若干ムリがあるところも。



ぼくはパソコンの画面に打ち込まれた文字を凝視し、煙草に火をつけた。山盛りになった灰皿はいつ崩れてもおかしくない。
「乞眼の婆羅門というお話を知っている?」
唐突にそう書かれた文字に、ぼくはどう反応していいかわからなかった。しばらく考えあぐねた後、サッチンに、ごめんわからない、と文字を打ち込んだ。「サッチン」とは画面の向こうの人で、ぼくは一度も会ったことがない。彼女がどこに住んでいて何をしている人なのかも知らない。しかし、過労で医師から自宅療養を言い渡されたぼくが日中SNSにのめり込んでいて、この数ヶ月そんなぼくの相手をするくらいのライフスタイルにある人だ、ということだけは知っていた。
「教えて」
 とぼくはキーを叩いた。
「簡単に言うとね」と彼女は間髪を入れずに文字を返してきた。
「あるとき修行を重ねてきた僧の前に乞食が現れた。乞食はお前の目をくれって言うの。ものすごく迷ったと思うわ。修行僧は目をあげたの。でもその乞食はその目のにおいを嗅いで、臭いと言い、地に捨て、足で踏んづけた。怒ったわ。それでジ・エンド。修行の道を捨てちゃったの」
 サッチンは何を伝えたかったのだろう。ぼくが上司への恨み節をつらつら書いたことを窘めたかったのかもしれない。
「仏教に詳しい?」
 とぼくは話をそらすように書き込んだ。
「好きなだけ。宗派も何も知らないけれど」
 とサッチンは答えた。
「うちの近所に深大寺ってお寺があるわ。お蕎麦も名物でね、いっぱい軒を連ねている」
「生きたいな」
 とぼくは書いた。それは「行きたいな」の誤変換だったが、サッチンは、
「生きて」
 と答え、その後更新は途絶えた。灰皿の縁で煙草を消すと山のてっぺんに吸い殻をそっと置いた。用心深く置いたつもりだが、山は崩れ、キーボードの横は灰だらけになった。
「山田さん、来る?」
 しばらくしてサッチンの文字が表示された。ぼくは慌てて「深大寺」を検索し、それが東京にあることを知った。行く、とだけ答えた。
 
 境内は平日だというのに多くの人で賑わっていた。しかしその風景は初夏の浅緑に覆われ、「静謐」という言葉がよく似あう。ぼくはサッチンとの約束の一時間前には深大寺に着いていた。逸る気持ちがそうさせたともいえるが、彼女の「日常」を少しでも多く感じていたい、と思ったためだ。まんざら過労も悪くない。ぼくは境内の樹々の香に身を浸しながら、思ってもみなかった感情に戸惑っていた。「たぶん水色のワンピースを着ていくと思う」とサッチンは言っていたが、それだけだと心許ないので黄色のハンカチを左手に持っていて、とぼくは注文をつけた。ぼくも黄色のハンカチを左手に持って待ち合わせの山門にまで戻った。約束の十一時だ。木洩れ日がやさしい。人の流れのなかに黄色いハンカチを持った女性がいた。身長は一七〇センチを超える二十歳前後のスレンダーな女性。しかし彼女は日本人には見えなかった。ぼくはちらちらと彼女を見ては他を探していた。すると視界の外から、その女性がぼくに体当たりしてきた。
「サッチン?」
「うん。山田さん!」
 ぼくはくしゃくしゃの笑顔になりながら、
「それでサッチンはないでしょ?」
 と彼女に体当たりし返した。
「嘘じゃないです! サマンサです!」
「サ、しかあってないし!」
 そうツッコミを入れるぼくに彼女も表情を崩して「生きていてくれて、ありがとう」と何度も何度も肩をぼくの胸に当ててきた。ありがとう、なのはむしろこっちのはずだ。この数ヶ月、ぼくは自分の存在意義を見失い、悶々としていた。その思いをサッチンに話し、いつも励まされてきたのだ。
「安心したら、おなかがすいてきたわ。蕎麦、蕎麦」
 とサッチンは眉を顰めて大げさに腹をおさえた。参道に出て鬼太郎茶屋の前に差し掛かると、彼女はぼくの方に振り返り、あたしは異界の生きものです、とポツリと言った。ハーフとかモデルさんやったら? とか勝手に言われるけれど、あたしはあたしの容姿も名前も嫌い、と寂しげに呟いた。
「あたし、たくさんの男に買われてきたの」
 彼女の告白にぼくはどう答えていいかわからなかった。
「お母さんに叱ってほしかった。でも、お母さんは彼氏のところへ行ったきり。そんなとき山田さんと知り合った。山田さん、苦しんでいた」
と小さく笑い、彼女はぼくの手を引いた。腕には無数の傷があった。
「水車がまわっているお蕎麦屋さんがあるんだ。仏教でいう……」
 そう話す彼女に「乞眼の婆羅門」と、ぼくは遮った。
「あたし、ぎりぎり」
 ぼくは彼女をみつめた。過労で倒れたとき上司は「山田君、入社前からおかしかったよね?」と無惨な言葉を振りおろし、ぼくは絶望の淵に追いやられた。それは差し出した目を踏みつけられ、怒りと悲しみに暮れた修行僧と同じだ。そこにサッチンがいた。きっと彼女もボロボロだったのだろう。「異界」でぼくたちは出会い、彼女はぼくを励ますことで生の淵ぎりぎりを危うげに歩んでいたのかもしれない。ぼくたちは黙りこんだまま店に入った。店には名も知らぬ人々が、いまここに蕎麦を介して集まっている。

「姿のないあたしにつきあってくれて、ありがとう、ございました」
 蕎麦を目の前にしてサッチンは深々と頭を下げた。
「終わり、なの?」
 と涙ぐむサッチンにぼくは問いただした。だって、と彼女は言い、
「あたし、山田さんを励ますほど立派じゃない」 
 せせらぎが無駄なものを削いでいく。瑞々しい蕎麦の香りが鼻腔にひろがっていった。
「でも、こんなにおいしい蕎麦を教えてくれたじゃない」
 黙り込むサッチンにぼくはつづけた。
「生きているからこそ味わえる。そしてこの味はいつか思い出になる」
「思い出……」
 伏し目がちにしていたサッチンがぼくの顔を見上げた。
「生きて」
 とぼくはテーブル越しに彼女を抱きしめた。ぼくの腕の中で彼女は泣きじゃくった。
「だめ。涙は女の武器っていうでしょう? 山田さん、騙されてる」
彼女は抉り取り、ぼくに差し出してくれている。それが「苦しみ」という名のものだとしても、ぼくはサッチンの話した乞食のようにはしない。受け取りたいと思った。
「正直に言うと、サッチンはぼくが正常でいられないくらいに美しいし、ぼくは涙に弱い」
 そう言うぼくの頬にも涙が伝っていた。ぼくはそれを拭うことなく、震える声でつづけた。
「だけど……。思い出、ここから作っていかない?」
 かっこよく言えば、「いまを生きる」。未来も将来も、「いま」の連続の果てにあるのなら、いまここで過去の苦しい記憶を塗り替えていくこともできる。……ぼくはそう思った。ぼくもまたサッチンを励ますことで過去のぼくを乗り越えていくのだ。それが恋と言えるものなのか、ぼくにはわからない。しかし、彼女はぼくにはなくてはならない存在であることはたしかだ。サッチンはただただ泣きつづけた。涙は流れつづけ、水車はまわっている。ぼくたちはいつまでもせせらぎを背に立ちつくしていた。


にほんブログ村 小説ブログへ
にほんブログ村


上の画像に書かれている文字を入力して下さい
 
<ご注意>
書き込まれた内容は公開され、ブログの持ち主だけが削除できます。